🍵 新宮しんぐう
霧が育てる、お茶と紙。
銅山川の渓谷に朝霧が立ちこめる山里。参勤交代の土佐街道が貫き、山霧が育てる新宮茶と、清流が支える手漉き和紙——「日本一の紙のまち」四国中央市の、みなもとの風景がここにある。
新宮の深い歴史
古代〜
熊野信仰の山里 — 「新宮」の名
「新宮」の地名は、紀州熊野の神を勧請した熊野神社(新宮神社)に由来するとされる。険しい山と清流に囲まれたこの土地は、古くから神々の宿る場所として拓かれてきた。
7世紀には都と土佐を結ぶ官道・南海道がこの山中を通ったとされ、新宮は古代から「四国のまんなか」を結ぶ道の里だった。
出典
- 伊予の隅々:四国中央市(旧新宮村)・2026-07-03 確認
- 新宮村(愛媛県)- Wikipedia・2026-07-03 確認
享保2年(1717)〜文久2年(1862)
土佐街道と馬立本陣 — 参勤交代の146年
享保2年(1717)に土佐街道が復活すると、馬立には土佐藩主・山内氏の本陣が置かれた。戦国期の豪族・石川氏の邸宅を元にしたと伝わる馬立本陣には、享保3年から文久2年まで146年にわたり歴代藩主が宿泊・休息した。
街道は参勤交代だけでなく、土佐の碁石茶と瀬戸内の塩を運ぶ「茶と塩の道」でもあった。明治30年の火災で本陣の建物は失われたが、正門と石垣が往時を伝えている。
出典
- いよぎん地域経済研究センター「新宮町に残る参勤交代の道をゆく」(IRC)・2026-07-03 確認
昭和27年(1952)〜
新宮茶 — 山霧と村ぐるみの無農薬
新宮にはもともと野生のヤマ茶が自生していた。戦後、タバコに代わる作物としてお茶に着目した村で、昭和27年(1952)から本格的な茶栽培が始まる。開拓の中心にいたのが、C茶園の初代だった。
昭和58年(1983)、C茶園の呼びかけで村の茶農家が無農薬栽培へ舵を切り、昭和60年(1985)からは村ぐるみの無農薬茶づくりが始まった。朝霧が直射日光を遮り、渋みの少ない甘露な茶を育てる——「霧の里」の名にふさわしい、日本の無農薬茶の先駆地である。
出典
- CHAMART「新宮茶 霧の森(愛媛県四国中央市)」・2026-07-03 確認
- 瀬戸マーレ「山霧に包まれて育つ甘露なお茶で一服。」(本州四国連絡高速道路)・2026-07-03 確認
1999年〜現在
霧の森、そして紙のまちの新しい風
1999年、旧新宮村の一大プロジェクトとして道の駅「霧の森」がオープン。新宮茶の抹茶をまとった「霧の森大福」は全国から注文が殺到する銘菓となり、山里に人の流れを取り戻した。
製紙で日本一のまち・四国中央市の山あいでは、いま若い世代が手漉き和紙の工房を構え、原料の栽培から紙漉きまでを一貫して手がける新しい動きも生まれている。お茶と紙——霧と清流の恵みが、次の世代へ手渡されようとしている。
出典
- 総務省 地域振興事例「霧の森大福の開発・販売」(総務省)・2026-07-03 確認
- 手漉き和紙工房 公式サイト・2026-07-03 確認
めぐりたい場所
新宮の茶畑
自然📍おおよその位置朝霧に包まれる山腹の茶畑。村ぐるみの無農薬栽培は日本の先駆け。
昭和27年から始まった茶づくりは、1985年に村ぐるみの無農薬栽培へ。霧が渋みを抑え、甘露な茶を育てる。
馬立本陣跡・土佐北街道
歴史📍おおよその位置土佐藩主・山内氏が146年間宿泊した参勤交代の本陣跡。正門と石垣が残る。
享保2年(1717)の土佐街道復活から文久2年まで、歴代藩主がここで旅装を解いた。茶と塩を運んだ道は今もたどれる。
この土地の、風の人
出典
- 伊予の隅々:四国中央市(旧新宮村)・2026-07-03 確認
- 新宮村(愛媛県)- Wikipedia・2026-07-03 確認
- いよぎん地域経済研究センター「新宮町に残る参勤交代の道をゆく」(IRC)・2026-07-03 確認
- CHAMART「新宮茶 霧の森(愛媛県四国中央市)」・2026-07-03 確認
- 瀬戸マーレ「山霧に包まれて育つ甘露なお茶で一服。」(本州四国連絡高速道路)・2026-07-03 確認
- 総務省 地域振興事例「霧の森大福の開発・販売」(総務省)・2026-07-03 確認
- 手漉き和紙工房 公式サイト・2026-07-03 確認